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オーバーツーリズム時代の「世界遺産登録」はどうあるべきか? 伊ベネチアの事例から課題と未来を考えた【外電】

ユネスコは最近の会議でベネチアを「危機にさらされている遺産リスト(危機遺産リスト)」に加えるべき十分な理由を持っていたが、リストには掲載しないことを決めた。それはなぜか――。

2019年6月にクルーズ船MSCオペラがリバーボートとドックに衝突。この事故は4名の負傷者を出し、ベネチアですでに熱を帯びていたクルーズ船に関する議論の緊張を高めた。ベネチアはもう何年も、オーバーツーリズムに伴う派生的な問題への取り組みに注力してきている。

この事故を受けて、ベネチアのルイジ・ブルニャーロ市長は、同市のクルーズ船を巡る状況が受け入れ難いものになったと明言。世界遺産であるベネチア市を「ブラックリストに加える」よう、ユネスコ(UNESCO)に個人的に依頼する考えもあると言及した。ご存知のとおり、ユネスコは世界遺産委員会の運営を支援する国連の専門機関だ。

※編集部注:この記事は、米・観光専門ニュースメディア「スキフト(skift)」に掲載された英文記事を、同社との提携に基づいてトラベルボイス編集部が日本語翻訳・編集したものです。

実際に多くのメディアが、ブルニャーロ市長の意見について報じている。ユネスコはすでに2014年から、ベネチアをいわゆる「危機遺産リスト」に載せるかどうかを審議し、市長は実質的に同委員会による検討を長い間、強く要求していた。そして2019年7月10日、アゼルバイジャンのバクーで開催された会議で、ベネチアの運命は再び同委員会の手の中にあった。

ユネスコの「危機遺産リスト」には53の遺産が登録されており、そのうち先進国にある登録遺産はわずか3ヶ所だ。リストに加えられるまでには、遺産登録地によるさらなる正確な調査と厳密な自己報告を必要とする。ベネチアのような世界的に有名な登録地が危機遺産リストに加えられれば、かなり厳しい世論にさらされることにもなりかねない。

ベネチア市長は芸術と文化と復元で有名な国にある自分の街に、この不名誉な地位を与えたいと本当に思っているのだろうか? そして、もしユネスコが承諾すれば、それはどのような意味を持つのだろうか? それらの疑問への答えは、1978年に遺産の登録を開始した同委員会がマスツーリズムの時代に直面している「複雑な課題と政治的問題」を明らかにする。

世界遺産委員会の役割は「スポットライトを当てる」こと

ユネスコ世界遺産について聞いたことがあり、実際に訪問したことがある人はたくさんいても、実際に「世界遺産」の意味を知る人は少ないのではないだろうか。世界遺産に登録する本来の目的は、全世界がそれらの保護において既得の権利を持ち、きわめて独自性が高く特別な文化・自然遺産を確実に保護すること。各国は自国の候補地の登録を10の基準に基づいて申請し、その管理計画を提出すると共に、監視を受け入れる必要がある。しかし、全体的な枠組みには全く拘束力がない。つまり、ユネスコは多くの名声とブランド認知を持つが、現実的な力はあまりない。

持ち回り制で一度に最大21の締約国で構成される世界遺産委員会(WHC)が、ある遺産を「危機にさらされている」と決定する場合、ユネスコは復旧のための枠組みの提供を支援し、学者や専門家を派遣すると共に、遺産の復旧に必要な国際的な善意やリソース、専門知識の提供を促進する。通常、資金の提供は行わないが、危機にさらされている状況自体が民間や公共機関からの資金調達を推進する助けとなることができる。(危機にさらされているという立場は、その国の要請により認められることもある。)

危機にさらされている遺産の多くは紛争地帯や紛争からの復興地域にあり、リソースが不足している。そのような国にとっては、ユネスコのような立場が保護のための専門家などを呼び込む大きな助けとなる可能性がある。しかしイタリアのような先進国においては、保護のための支援を求めるというよりも財政的困窮が原因であるかのように思われることがある。先進国は自国の遺産が危機リストに含められるのを避けるのが普通だ。

世界遺産に関する本を2006年に共同編集したことがあり、エディンバラ・ネピア大学で観光マネジメントを教えるアンナ・リースク教授は、危機リストへの登録は保護のための大きな支援が得られるということに加え、世論の問題でもあると言う。

「危機遺産リストへの登録を求める目的は、その苦境に対する世間の認知と保護の必要性の認知を高めることにある。認知を高め、行動せざるを得なくさせるのが目的」とリースク教授は述べる。「ユネスコに対して、『あなたにスポットライトが当たっている。あなたはこの問題を片付ける必要がある』と訴えるわけだ」。

バクーでの会議で、同委員会はベネチアにスポットライトを当てないことを選んだ。同市を危機にさらされている遺産として登録する代わりに、ブルニャーロ市長の支持で物議を呼んでいるクルーズ船の代替計画を含む管理計画を即決で承認した。このクルーズ船代替計画は、市長の他に有力者マッテオ・サルヴィーニ副首相とクルーズ船業界も支持している。一方でダニーロ・トニネリ運輸大臣と、ベネチアラグーンからクルーズ船を完全に締め出したい「ノー・グランディ・ナヴィ(ノー・ビッグ・シップの意)」のような活動家グループはこの計画に反対している。

ベネチアの復元と調査を促進するために1966年に設立された英国の慈善団体「ヴェニス・イン・ペリル(危機にひんしたベネチア)」の元トップ、アンナ・サマーズ・コックス氏は、この決定はベネチアにとっても、ユネスコの全体的な関わり方にとっても誤りだと説明。「今回の結果は、同委員会が政治化してきた成行きを明らかにしている」という。

サマー・コックス氏が創設したアート業界の政治に関する出版物『ザ・アート・ニュースペーパー』への寄稿記事で、自身は「ユネスコが設立された1946年当時」について書いている。「この組織は作家や哲学者、科学者、芸術家によって運営されていた。それ以降、官僚化と政治化が進み、残念なことに195の加盟国の存在を遠ざけてしまっている。世界遺産への登録は、もはや事実や支援を求める訴えを単純に認めるもののようには見えない。そうではなく、各国の大使が本来避けるべきあらゆることを行う、”国家的な恥”のようにすら思える」。

サマー・コックス氏はスキフトに対し、同市がリストに加わることをブルニャーロ市長が心から望んでいるとは考えていないと語った。市長は自身のクルーズ航路承認管理プランに対する政治的意志を獲得するために、スタンドプレイをしているというのだ。スキフトでは市長の事務所にコメントを求めたが、返答は得られなかった。

ベネチアを危機遺産リストに登録するという判断は、主に象徴的なものだろうと彼女は付け加える。「先進各国がこのリストへの登録を慎重に避けてきたことを考えれば、それは実際のところ、非常に強力な象徴となるだろう … イタリア政府レベルで多くの歯ぎしりと自己反省、そして多くの怒りが生まれるかもしれない。しかし、多くの人たちが『がんばれ、待ちかねていた!』と言うだろう」。

非政府団体ヨーロッパ・ノストラはこの意見に同意する。7月4日午後の全体会議中、同団体のSneška Quaedvlieg-Mihailović氏はセッションを中断して6月2日に起こったMSCオペラの事故に言及し、同委員会に対してベネチアに関する決定を再考するよう勧告した。

彼女は「委員会の決定がこの事故と、事故が示唆する意味を参照していないことを遺憾に思う」と発言。「また、2016年に採用された、大型船やタンカーのラグーンへの進入を禁じる決定を、この委員会が変える決定をしたこと遺憾だ。残念なことに委員会は本日、今後もクルーザーをラグーンに進入し続ける航路を承認した。この航路はクルーズ業界の支持を得て、ベネチア市により推し進められている。ユネスコの役割は世界遺産を保護することであり、クルーズ業界に支援を与えることではないということは、誰もが同意するはずだ」

世界遺産への登録が本来の目的と「矛盾」する結果も

最近の会議での同委員会によるベネチアの扱いから、しごく当然な疑問も生まれる。1946年に創設されたこの国際的な保護団体が、現在のオーバーツーリズムの時代にすべきことは何だろうか――?

リースク教授は、実際のところユネスコはツーリズムを念頭に置いて設立された組織ではないということに注目すべきと言う。ツーリズムを目的とする国連機関としては、別の組織「国連世界観光機関(UNWTO)」がある。しかしユネスコが遺産の保護に重点を置いて始まった一方、ツーリズムは時間が経つと共に、世界遺産への登録がもたらす利益の1つになってきた。

リークス教授は自著のなかで「単なる登録という行為が世界遺産への訪問者数を何倍にも増加させる可能性があり」、最終的には遺産を保護するという利益と逆の働きをするようになるかもしれない、と述べた。

「世界遺産に登録されることのメリットは、ツーリズムと非常に関係している」とリースク教授。「昨今、人々の行動範囲は大幅に拡大し、”何かのリスト”に動かされることが多くなっている。だから各国が、世界遺産に推薦され、そのリストに加えられることを非常に熱心に望んでいる。なぜなら登録地に対して、保護と資金調達と訪問者に関する支援をもたらすメリットが得られると考えるからだ」。

リストへの登録は、ユネスコがその運営ガイドラインに記載しているとおり、「推薦された各資産が適切な管理計画や、資産の『傑出した普遍的価値』の保護方法が明記されたその他の文書による管理システムを有している」ことが求められる。しかしそのガイドラインでは、ツーリズムと訪問者に関する記載が比較的少なく、曖昧な言及しかない。その理由の一部は、各登録地がそれぞれ大きく異なっているという事実にあると言ってもいいだろう。ツーリズムはベネチアやマチュピチュでは大きな役割を果たすことができるが、ギニアの自然保護区ではそれほどでもない。また、登録の結果、訪問者がどれだけ増えるか把握するのは非常に難しい。

それにも関わらず、登録要件をマスツーリズムの時代に合わせるためにユネスコができたことは他にあったはずだ、とリースク教授は確信している。「推薦書には、世界遺産への登録がツーリズムにもたらす影響と、それに対する管理計画が記載されていなければならない」。ユネスコは委員会の運営と支援を助けるだけで、委員会メンバーの決定に関するコメントは公認されていないとして、このことに関する公の回答を拒否している。世界遺産への登録によってツーリズムに与える「逆の作用」についてたずねたところ、「持続可能な観光(サステナブル・ツーリズム)プログラム」の概要を説明するユネスコウェブサイト上のコンテンツを見てほしいとのこと。

ベネチアの場合、同委員会の決定は明らかに好機を逃したとサマー・コックス氏は感じている。

「その決定は世界遺産委員会にできることを極端に狭めている」とサマー・コックス氏。「登録遺産を守るという点で、非常に臆病で絶望的な組織になってしまった。ベネチアが危機にさらされているという明らかな事実を認めることができないのであれば、いったい彼らには何ができるというのか?」と懸念を示唆している。

※編集部注:この記事は、米・観光専門ニュースメディア「スキフト(skift)」に掲載された英文記事を、同社との提携に基づいてトラベルボイス編集部が日本語翻訳・編集したものです。

※オリジナル記事:UNESCO Could Have Helped Save Venice From Overtourism: Why Didn’t It?


著者:ロージー・スピンクス(Rosie Spinks)氏