カナダ観光で「先住民観光」が注目を集めるなか、各州でもさまざまな先住民観光プロダクトが揃いつつある。なかでもアルバータ州は先住民メイティが多いところで、関連のプロダクトも多様だ。
2024年5月にアルバータ州エドモントンで開催されたランデブーカナダ(RVC)の視察ツアーで、メイティ・クロッシングがパークス・カナダ(カナダ国立公園管理局)とともにメイティの文化理解のために企画した2泊3日の「Beavers, Bison, and People: Our Promise to Wahkotowin」に参加した。本記事では、エドモントン周辺の先住民観光と、その背後にあるストーリーを紹介する。
※冒頭写真:ジェリー・ホワイトヘッドのモザイク画を解説するディアキウ氏
カナダの先住民のひとつ「メイティ」の歴史
まず、基本情報として知っておきたいのが、カナダの先住民は、かつてインディアンと呼ばれたファーストネーションズ、北極圏のイヌイット、先住民とヨーロッパ人の間に生まれたメイティという3つのグループが憲法で定められていることだ。
なぜ、ヨーロッパ系の先住民がいるか? 1700年代に毛皮貿易のためにやってきたフランス、スコットランド、イングランドの男性とクリー族など先住民女性と結婚で生まれた子孫が、毛皮交易やバイソン猟を通じ、世代を経て独自の文化や民族性を形成。現在、先住民と認められているためだ。
アルバータ州メイティネーション(メイティの自治組織)では、メイティとは「メイティを自認し、メイティの先祖を持ち、メイティネーションに受け入れられている者」と定めている。現在、カナダ全土でおよそ55万人、アルバータ州で11万人以上のメイティが存在する。
メイティ地質学者の解説でめぐる先住民アートパーク
メイティの歴史や文化をテーマとしたツアーは、エドモントンの南側、クイーン・エリザベス・パークの一角にある先住民アートパーク「イニュウ(ÎNÎW)リバーロット11∞」からスタートした。ここの案内役となったトーキング・ロック・ツアーズ創始者キース・ディアキウ氏はメイティの地質学者で、フランスとウクライナにルーツがあり、先祖は1885年のメイティの反乱(バトーシュの戦い)で亡くなっていたりと、家族の歴史がそのままカナダの歴史となっている。
「メイティは戦いで敗れた1885年から、インディアンでも入植者でもない立場で(憲法で先住民の法的地位が認められた)1982年まで忘れられた存在だった。今は、何世代にもわたる和解の最中だ」と語る。
2018年にオープンしたアートパークは、この地に住んでいたメイティのジョゼフ・マクドナルドが所有した河川区画リバーロット11の名前も付された。リバーロットとは、毛皮貿易衰退後に農地確保のために作られた独自の細長い土地区画のこと。川岸から耕作地を挟み高台側へもアクセスできる画期的なシステムだとディアキウ氏はいう。カナダ建国以前からコミュニティが形成されたメイティの重要な拠り所で、このリバーロットを無視してカナダ政府が西部の統合を進めたことがメイティの反乱へとつながった。
公園に置かれた6つのインスタレーションはメイティの歴史や文化にちなむもので、ジェリー・ホワイトヘッドの作品「マモカマトウィン (助け合い)」(冒頭の写真)では、タートルアイランド(=北アメリカ大陸)を表すカメの背中に、スウェットロッジやビーバー、旗、バイソンなどメイティの象徴が描かれている。
ウクライナ文化歴史村で移民の歴史を見る
エドモントンから西50キロにはウクライナ文化遺産村がある。
ここでランチに立ち寄り、同施設を支援する友の会が作ってくれたジャガイモとチーズの入ったダンプリング、米を包んだロールキャベツやソーセージなどウクライナ料理を味わった。ウクライナ文化遺産村は1930年までのウクライナ人入植地の風景が再現された屋外博物館で、アルバータ州が運営。オーストリア=ハンガリー帝国支配下のウクライナ人が160エーカー(0.65平方キロ)の土地が与えられるカナダへ、よりよい生活を求めて最初にやってきたのが1890年代のこと。今では130万人のウクライナ人がカナダに住み、本国以外で住む人口の多さはロシアに次ぐ。
「カナダのウクライナ人の物語はカナダの歴史でもある」と館長のデイビッド・マコウスキー氏は話す。
360エーカーの敷地には最初にカナダに辿り着いた道から初期に建てた家も復元。農場や穀物倉庫、店や教会などコミュニティができていった様子も偲ばれ、年代で異なる家々からは徐々にカナダ風になっていく変遷も見られる。農地を開拓するうえで先住民との関わりもでき、先住民やメイティが土地ならではの知恵を与えたことが、この地で生きる上での助けになったのだそう。
そして、ここで見られるのは、特別な人ではなく、ごく普通の人たちが辿ってきた暮らしの証だと同館ガイドのイリーナ・タトコさんは強調する。家の中に入ると、当時の服装を身につけた人がその時代の人物を演じているので、時間を超えたリアルな没入感が楽しめる。
バイソンとビーバーが再生した生態系を知る
メイティの文化に大切なバイソンやビーバーについて知るため、エルクアイランド国立公園へ。ウクライナ文化遺産村からビジターセンターへは車で5分程度。野生動物保護区として1906年に設立された同公園は、今ではバイソン保護の要で、Bison Backstage Tourでパークス・カナダ(カナダ国立公園管理局)の保護活動を紹介している。
「バイソンはウォルマートであり教会である」(ブラックフット族の学者リロイ・リトル・ベアの言葉)といわれるようにバイソンは精神的・物質的にも先住民の重要な資源。体重1トンと北米最大の陸生哺乳類で、肉は食糧に、毛皮はティーピー(テント式住居)や衣服に、骨からは道具を作るなど全て残さず利用されていた。生態系にも欠かせない存在で、草食であるバイソンの糞は菌類や植物の栄養になり、さまざまな植物が生え、虫や鳥がやってくる。バイソンが土の上で転げ回ってできた窪みは水場となってカエルが棲むなど、バイソンが戻ったことでクレーター化していたプレーリーが本来の生態系を取り戻しているという。
1800年代初頭までに6000万頭もいたバイソンだが、牛などの家畜や病気がもたらされ、19世紀末には1000頭未満に減少。ヨーロッパへの毛皮貿易のための狩猟だけでなく、中西部の鉄道開通の影響も大きく、これにより入植者が増加したことが背景にある。先住民やアメリカ人の手を経て、最終的にカナダ政府は残された最後のバイソンの群れの半数以上を購入して保護した。現在、エルク島国立公園にいるバイソンは1000頭弱。牛と交配しないよう、病気にも気をつけて管理され、カナダの先住民コミュニティだけでなくアメリカにも供給し、一部がメイティ・クロッシングにも送られている。
同様に、ビーバーが「生態系エンジニア」としていかに土地を支えているか、アストティン湖を周りながら説明を受ける。もともとこのエリアはビーバーヒルズ(クリー語のAmiskwaciy=アミスクワシーの英訳が由来)と呼ばれ、その名の通り、19世紀初頭まで多くのビーバーが生息していたが、毛皮貿易でほぼ絶滅。1940年代になって、ビーバーの再生に成功する。ビーバーは水路を堀り、池を作り、干ばつでも水位を維持し、湿地が保たれることで鳥類や両生類などが生息できるようになった。今では数百匹のビーバーがいる。
「ビーバーが懸命にダムや自分の家を作ることが全ての生態系を助け、それが地球の役に立っている。このビーバーのマインドセットに学ぶところは大きい」とパークス・カナダのインタープリター、トリスタン・ヒル・ドロズディアク氏は語る。
次回の記事では、メイティ・クロッシングでの体験をレポートする。
取材協力:カナダ観光局
取材・記事 平山喜代江