はじめまして、日本修学旅行協会の竹内秀一です。
コロナ禍を経て、修学旅行を取り巻く環境が大きく変化しています。旅行費用の上昇、ドライバー不足などが顕在化する一方で、現行の学習指導要領に沿って探究学習を取り入れたプログラムの開発も喫緊の課題になっています。
とはいえ、「学びの旅」という本質は、修学旅行の誕生から今に至るまで綿々と受け継がれてきたものです。本コラムでは、その歴史をたどりながら、現在の修学旅行の課題やトレンドを探ってきます。
大部屋の枕投げは、もはや伝説
中学・高校で一番思い出に残っている学校行事は何でしょうか? 私の授業を受けている大学生に聞くと、「修学旅行」という答えが多く返ってきます。
修学旅行というと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか?
貸切バスで名所旧跡を訪れ、旗を持ったバスガイドさんの後をみんなでぞろぞろとついていって、目的のスポットで説明を聞いたあとバスに戻って、また次の訪問先に向かう――。こうした修学旅行、実は、最近ではどんどん少なくなっています。ましてやメディアでたまに取り上げられる、大部屋に大勢の生徒が泊まって枕投げなどという光景は、もはや伝説といってもよいでしょう。
修学旅行は「授業」、新学習指導要領の柱「探究的な学習」の実践の場に
修学旅行は「思い出づくりの旅」とよく言われます。たしかに、そういう側面はありますが、それは結果であって、思い出づくりを目的に修学旅行が行われているわけではありません。修学旅行は、各学校の教育課程の基準として定められている学習指導要領に、教科などと並んで位置づけられている特別活動であり、そのうちの学校行事「旅行・集団宿泊的行事」(小学校では「遠足・集団宿泊的行事」)として実施される教育活動なのです。つまり、修学旅行は教科の授業と同等の「授業」の一つであるといえるわけです。
コロナ禍のなかで修学旅行の在り方についていろいろと取り沙汰されましたが、これによって修学旅行の教育的な価値、すなわち修学旅行が何よりも「学びの旅」であるということが、あらためて認識されたように思います。
一方、新型コロナの感染が拡大しているさなかに、現行の学習指導要領が実施されました。その柱になっているのが「探究的な学習」です。「探究的な学習」では、生徒がさまざまな体験的な活動をしていくなかで課題を発見したり、課題解決に向けての情報を収集したりすることが重視され、学校にはそうした学習を推進することが求められています。そうはいっても、学校の中だけで、それをおこなうことは難しいのも現実です。
そこで、修学旅行を「探究的な学習」を実践する場にしようという学校が増えてきました。修学旅行における「学び」の比重が、ますます大きくなってきているといってよいでしょう。
もともと修学旅行が「学び」の要素を強く持った旅行であったことは、修学旅行の始まりをみてみるとよくわかります。そこで、少し修学旅行の歴史をたどってみたいと思います。
当初から「学び」に目を向けていた修学旅行
1886年2月、現在の筑波大学の前身、東京師範学校が千葉の銚子方面に11泊12日(10泊11日としている論文もあります)という「長途遠足」を実施しました。これが、修学旅行の始まりとされています。遠足ですから、もちろん全行程徒歩です。このころの日本は「富国強兵」の時代でしたので、当時の学校で行われていた遠足は、生徒の体力強化を図るための「行軍」(兵士が隊列を組んで行進する)訓練という性格をもっていました。
「長途遠足」も、そのような訓練であることに変わりありませんが、東京師範学校では、途中に鉱物や貝類の観察・採集、文化財や遺跡の見学といった「学び」の要素を取り入れて実施したのです。そのことが、この「長途遠足」を修学旅行の始まりとする所以となっているわけです。なお「修学旅行」という名称も、東京師範学校が「高等師範学校」に改められた後の1886年8月に実施された栃木県方面への旅行記を、同年12月発刊の同窓会誌に掲載する際、そのまえがきを「修学旅行記緒言」と題したことが初見とみられ、翌年には当時の文部省も『文部省第十五年報』で「修学旅行」という名称を使用しています。
こうして、修学旅行は師範学校から他の学校にも広がっていきましたが、しだいに「行軍訓練」という性格は薄れていきます。それは、大阪にあった第三高等中学校が、1889年に実施した修学旅行で汽車を利用したとみられる記録があるように、修学旅行に鉄道が利用されはじめたこと。1891年には「兵式体操」が中学校の正課としての「体操科」の中に位置付けられ、修学旅行から「兵式体操」の要素が分離されたことなどが要因となっています。
戦争を背景に軍事色濃厚だった時代を経て
修学旅行から軍事訓練的な性格がなくなっていくことで、現在のような「学びの旅」としての修学旅行ができあがっていくのですが、日清戦争・日露戦争の勝利が修学旅行にも影響を与えるようになってきます。たとえば、日本が満洲(中国東北部)に勢力を拡大し、1910年に韓国を併合すると、いわゆる「満韓修学旅行」を実施する師範学校や中学校が現れてきます。「満韓修学旅行」は、明治末期から大正を経て昭和初期まで活発に実施されていましたが、旅程には日清・日露戦争の戦跡見学などが組み込まれるなど、当時の国策に沿って行われることが多かったようです。ただし、1931年に満洲事変、1937年に日中戦争が起きると「満韓修学旅行」は実施されなくなっていきました。
一方、内地では、伊勢神宮や皇居への参拝、軍艦や軍事施設の見学などを旅程に組み込む修学旅行が盛んになっていきます。なかには、生徒を軍艦に乗船させて海軍生活を体験させるといった学校もありました。昭和の戦前期にはこのような動きは小学校にも広がっていきます。1937年には、鉄道省が伊勢神宮参拝を目的とする鉄道利用の際の運賃割引を告示しますが、これによってこうした動きに拍車がかかりました。伊勢への行き帰りに奈良・京都を訪れる学校も増えたようです。
明治末期から昭和の戦前期に、小学校から旧制中学校・師範学校に至るまで、修学旅行は学校行事の一つとして定着していきますが、その背景には学校教育を通じて敬神思想や国体観念を育成しようという国家主義的・軍国主義的な国の政策があったように思います。しかし、戦時体制が強化され、鉄道が軍需物資や兵員の輸送を優先するようになってくると修学旅行の実施はしだいに難しくなっていきます。そして、1941年8月には学校教員・学生生徒・団体旅客等に対する鉄道運賃割引が停止され、この年の12月、ついに太平洋戦争が始まります。1944年、1945年に修学旅行が実施されたという記録は今のところ見当たりません。
このように、時代を追うごとに軍事色を濃くしてきた修学旅行ですが、「学びの旅」という本質には変わりありません。それは、修学旅行が、国が進めている「国策」を生徒たちにより深く学ばせるための旅として実施されていることからもわかります。
それでは、戦後の修学旅行はどのように変遷して今に至っているのでしょうか。また、現在の修学旅行のトレンドや課題になっていることは? 次回のコラムでは、これらのことについて述べたいと思います。