山形県・酒田舞娘を体験型観光コンテンツに、DMOと取り組む花街文化✕観光を芸妓リーダーに聞いてきた

江戸時代から明治にかけて、北前船で栄えた山形県酒田は「東の酒田、西の堺」と称されるほどの賑わいを見せ、昭和初期でも約200人の芸妓が宴席を彩っていたという。しかし、その後はその宴席も減少の一途。酒田の文化としての「舞娘」が途絶える危機に直面した。現在は、地元経済界に支えられ、「舞娘茶屋 相馬樓」を中心に酒田観光の情報発信の一翼を担っている。

その「酒田舞娘」の母親的存在が芸妓の小鈴さんだ。「芸事をやり始めた頃は、自分の仕事と観光がクロスするなんて思ってもみなかった」と話す小鈴さんは、どのように酒田の観光振興に関わっているのだろうか。

津軽三味線から舞娘の世界へ、現在は育成も大切な仕事

小鈴さんは、幼い頃から津軽三味線などの芸事を習い、高校卒業後に青森の師範のもとに弟子入り。酒田に戻ると、地元経済界が中心となって1990年に設立した「港都振興」に、町おこしの一環として始められた「舞娘さん制度」があるのを知り、「給料を貰いながら芸事が続けられる」と思って、入社した。

しかし、舞娘としての芸事は別物。入社後から踊りの稽古を始め、苦労の末、1992年に酒田舞娘3期生「小鈴」としてデビュー。後年、日本舞踊五大流派のひとつ藤間流の師範も取得した。

小鈴さんが入社した頃、酒田舞娘は「OL舞娘」と呼ばれ、酒田市のマスコット的存在として扱われたが、小鈴さんは「『酒田のためにがんばって』とよく言われましたが、当時はその意味がよく分かりませんでした」と振り返る。

小鈴さんは現在、自ら地方(じかた=伴奏)として舞娘の演舞を支えるほか、踊りの稽古場「花柳界伝承舎 酒田 小鈴」を開き、酒田舞娘の育成も担っている。日々稽古に励み、酒田文化の伝承と発信に貢献しているのは、鈴華さん、小夏さん、鈴涼さん、千鶴さん、鈴千代さんだ。

「舞娘茶屋 相馬樓」で小鈴さんに話を伺った。

酒田舞娘にも、酒田の文化にも大切な「相馬樓」

酒田舞娘の活躍の転機になったのが、「舞娘茶屋 相馬樓」の開業だ。

江戸時代から200年以上続いた料亭「相馬屋」を、港都振興の事業を引き継いだ平田牧場が大きく改修し、2000年に観光施設として再生を果たした。平田牧場の新田嘉一会長は酒田市経済界のリーダー的存在。酒田舞娘の継承に強い思入れを持ち、自ら樓主(オーナー)となって、復活に心血を注いだ。

小鈴さんは「相馬屋は、1990年代半ばごろから立ち行かなくなり、借金も多く抱えてました。酒田市への寄贈も難しいなか、新田会長が受けてくれることになりました。民間の力だからこそ、再生が可能になったのだと思います」と話す。

相馬屋は明治27年の庄内地震による大火で焼失し、現在の建物の骨格は明治28年に再建されたもの。当時は漆喰の白壁だったが、「相馬樓」は、外壁も内装も赤を基調に修復され、館内には雛人形など酒田文化を散りばめ、二階の大広間は舞娘の踊りと食事が楽しめる宴舞場にした。1996年には国の登録文化財建造物にも指定された。

歴史ある料亭「相馬屋」を再生し、観光客が訪れる「舞娘茶屋 相馬樓」に 小鈴さんによると、開業当時は毎日300人ほどが来館したという。一般的に「舞妓」と言えば京都のイメージが強く、敷居が高いと思っている人が多いなか、来館者からは「酒田で本物の芸を見られるとは思わなかった」とよく言われ、その褒め言葉が舞娘たちのモチベーションを上げたという。酒田文化の担い手という責務よりも、表現者としての喜びが、芸をさらに向上させた。

一方で、小鈴さんは「気軽に安く舞娘の踊りや食事が楽しめることを売りに、回転率を上げることで収益を上げようとしましたが、舞娘の支度も大変なので、いろいろと難しさもありました」と明かす。

次第に来館者数は減少。一般公開は土日祝日、平日は完全予約制に運営方法を変更したが、コロナ禍でその運営上の課題が浮き彫りになったという。「それまではターゲットやコンセプトが曖昧なままでした。安いから気軽に入れることが良かったんですが、これからは体験型宴会として、高いけれど特別な体験ができる場所にしていければと思っています」と小鈴さん。

経営はあくまでも平田牧場が担うが、「相馬樓がなくなると、私も舞娘たちも困ってしまう」。酒田の文化を発信する場所がなくなるからだけでなく、表現者としての舞娘の居場所がなくなってしまうからだ。

風情のある相馬樓の中庭

酒田舞娘を体験型観光コンテンツに、酒田DMOとはチームで

酒田舞娘を体験型観光コンテンツとして訴求し、販売していくためには、「酒田市や酒田DMOとの協力が大切」と小鈴さんは話す。その一環として、酒田舞娘は2018年に「さかた観光交流マイスター」第一号に認定され、「文化を伝承していく役割と酒田市の良さを発信する役割」(小鈴さん)のお墨付きを受けた。

酒田DMOとは「チーム」として観光促進活動を積極的に続けている。「京都は黙っていても人は来ますが、酒田はそうではありません。DMOには、旅行者が『東北だから、酒田だから行く』という環境づくりをしてもらっていると理解しています」と信頼をおく。

観光促進では「私たちは宣伝の部分を担っているのでしょう」と小鈴さん。コロナ禍を経て、その活動は広がりを見せている。2022年10月には、酒田市の代表団の一員として「第31回北前船寄港地フォーラムinパリ」に参加するために渡仏。ルーブル美術館で舞を披露した。また、台中国際旅行展覧会にもDMOと同行。現地で「酒田甚句」などの踊りを披露し、喝采を浴びたという。

小鈴さんは「花街の人間として殻に閉じこもっていれば、舞娘はなくなっていくんだろうと思います。私たちが生き残り、芸事や文化を伝承していくうえで、観光は私たちにとって新しい取り組みなんです」と話す。

一方で、観光だけで経済的自立が可能だとは考えていない。「コンスタントに酒田舞娘の活動を回していけるシステムを作ることが大切。そのためには、相馬樓でのお座敷、地元経済界、そして地元の人たちの支援も大事だと思っています」と現実を見ている。

稽古場で舞娘たちは日々精進。小鈴さんは芸だけでなく人としての成長も願う。酒田舞娘を次世代へ、持続可能な観光サイクルで

酒田市は、映画『アイ・アムまきもと』のロケ地にもなった。監督は『舞妓Haaaan!!!』を手掛けた水田伸生氏。小鈴さんによると、酒田氏を訪れた水田監督は「庄内は生命力に溢れている。こういう美しい土地はなかなかない」とのコメントを残したという。

「地元の若い人たちに、そういった酒田の良さを知ってもらいたいし、見たもらいたい」。地元の人たちでさえ、酒田舞娘が酒田に存在することは知っていても、その踊りを実際に見たことがある人は多くない。コロナ禍で相馬楼での活動が制限されるなか、小鈴さんたちは学校を訪問し、演舞を披露した。「今後もこうした活動は続けていきたいですね」と意欲を示す。

また、若い世代との繋がりは文化を次世代に受け継いでくためにも重要なことだ。相馬樓は2018年、酒田南高校と日本舞踊を中心とした人材の育成で協定を締結した。酒田南高校は、庄内地域をより理解し世界に向けて発信することができる人材の育成に向け、普通科の中に「観光・地域創生専攻」を新設しており、小鈴さんの元には、その専攻から弟子入りした舞娘もいる。

「酒田舞娘が仕事として成立し、酒田の顔として不動の立場を築いていくことを目指しています。仕事として成り立ちさえすれば、舞娘が変わったとしても、文化は続いていくと思います。人を育てるのには時間がかかります。舞娘としてだけでなく、品性のある子供たちを育ていく。と同時に、人を育てられる人を育てていく」。小鈴さんは、自身の役割をそう話した。

芸事に一生を捧げてきた小鈴さんにとって、観光とは自分が楽しむものだった。今は、人を楽しませる観光にも関わっている。「旦那衆の花街文化は昔は必要だからからこそ残ってきた。時代が変わるなかで、その文化を残そうとしなければ、残っていかないと思います」。それが分かったからこそ、観光の意義に気付いたという。

「酒田舞娘には、一生懸命頑張るのに値する歴史と酒田の人たちの思いがあります。私が辞めるわけにはいかないんです」。

酒田舞娘が体験型観光コンテンツとして人を呼び込み、酒田の観光産業を潤せば、酒田舞娘は自立し、その文化が後世に受け継がれていく。酒田市の持続可能な観光サイクルは始まったばかりだ。

聞き手:トラベルボイス編集長 山岡薫

記事:トラベルジャーナリスト 山田友樹

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